はたらこう課

Interview

リレーインタビュー

幼なじみ三人でスペイン料理店を開き、
ミシュラン二つ星を獲得し、さらに高みへ。

# 35

八木 恵介

KEISUKE YAGI

シェフ

株式会社Hife

Profile

1979年、内灘町生まれ。市役所の職員として勤務した後、料理の道を目指して上京し、東銀座のカフェで勤務。金沢のイタリア料理で4年間修業の後再び東京へ。28歳の時にスペインへ渡り、二つ星レストラン(現三つ星)「ABaC(アバック)」で2年間修業。帰国後、東京のスペインレストランに勤務。金沢・堀川町のスペインバル「Blanco(ブランコ)」のシェフを4年半務めて独立。幼なじみの梅 達郎と北川悠介とともに、2016年、株式会社Hife(ハイフ)設立。’17年、博労町にスペインレストラン「respiracion(レスピラシオン)」、’18年、木倉町にスペインバル「comer(コメール)」を開店。’20年、チーズケーキ専門店「PiSO(ピソ)」を立ち上げ、金沢駅構内に出店。能登の里山・里海の環境・資源を後世に繋げる「NOTOFUE(ノトフュー)」の活動にも参画する。

起業までのいきさつは?

特殊ですが、幼なじみ三人で起業しました。東京生まれの達郎(梅 達郎)は保育園の時に引っ越してきて、悠介(北川悠介)は小1の時に三重から転校してきて知り合って以来ずっとですから、もう40年近い付き合い。それぞれ性格が違うのになぜ今も一緒にいるのか不思議なんです。三人の家が近いこともあっていつも遊んでいて、特にバスケに熱中し、音楽、ファッションなども一緒に楽しんできました。

社会人になると、みんな全然違う仕事に就きました。僕は市役所勤めをしていたし、達郎は回転寿司の機械製造の企業に入社し、悠介はガラス施工の仕事をしていましたが、なんか面白くないなぁ、もっと面白いことやろう、となって。その面白いことって何かを考えた時に、他にもいるたくさんの仲間とご飯を囲んで飲んで食べて騒ぐ、そういう時間が一番幸せだし、そんな仲間が集まれる場所ができたら一生楽しいんじゃないかなと思って、みんなバラバラに飲食の道に入っていったんです。といっても、飲食業界は今もそうですが、昔はもっともっと厳しい世界。だから10年修業して力を付けて、その時に残った者だけでお店をやるかやらないかを決めることに。ただし、人のせいにするのはやめよう、もし誰かが辞めたとしても、そこまで我慢できたらお店をやろうとの強い覚悟をみんなが持っていました。

達郎と悠介は和食からのスタートで、二人は一緒に東京の飲食の会社でスペインバルやイタリアン、フレンチの料理長を務めていましたし、僕も金沢や東京のイタリアンで修業して、ジャンルは違っても三人は交流しながらいつも料理でつながっていました。石川県で活躍しているシェフの大先輩たちからイタリアや東京での修業話とともにミシュランの話題も聞いて、きっとそこが最高峰なのかなと思って、5年後の27歳になったら達郎と世界のどこかへ修業へ行こうと決めました。料理を始めた頃は東京にもミシュラン自体なくて、星付きレストランで修業しようと思ったら海外に行くしかなかったんです。ようやくインターネットが普及し始めた時だったから情報が少なくて、旅行ガイドブックの『地球の歩き方』を読んでいましたね(笑)。

僕はイタリア料理をやっていたのでイタリアに行くつもりでしたが、その頃ちょうどスペインの有名レストラン「エル・ブジ」の分子ガストロノミー料理が世界を席巻していた時代。料理専門誌にもスペイン料理がどんどん取り上げられていたこともあって僕たちも刺激を受けました。中でも、内灘育ちの海好きの僕らにとっては海があるバルセロナがいいね、といった簡単な気持ちで達郎と二人でスペインへ渡り、「アバック」というミシュラン二つ星のレストランで修業に励みました。現地で一番学んだことは自由な発想や豊かな表現力でした。

帰国後は、バルセロナで見てきた数字度外視の料理の世界とは真逆の世界も見るべきだと思って、既製品を使って徹底的に採算性と効率を上げる全国チェーンレストランで働いたことも勉強になりました。その頃、三人が揃った東京で開業しようと考えていたんですが、僕らの規模ではお金も場所も借りることは到底できなかった。そこへ悠介たちのいた会社で、浅草に三人で店を構えたらどうかという話が持ち上がったものの、実は僕が先に金沢に帰ってしまい実現できなかったんです。というのも、先輩から金沢にオープンするスペインバル「ブランコ」のシェフの話をいただいたからです。

金沢から東京、バルセロナを経験して再び金沢に戻ってきて、あらためて大地と海の食材に恵まれた環境の素晴らしさやポテンシャルの高さに惚れ込み、僕らの店は金沢でやった方が面白いんじゃないかと思うようになりました。地元で開業することに対して、彼らはすぐにOKしてくれました。時間はかかるけどやろう、と。別にどこでやるというこだわりはなかったし、それよりも三人が一緒にやることが重要だった。先に帰ってきた僕が物件を探したり、銀行で融資について話を聞いたり、少しずつ準備を進めていきました。そのうち悠介も家族と一緒に帰ってきて、「ブランコ」の系列店舗で働き始め、達郎も家族を連れて金沢に帰ってきました。

三人は15年間修業し、37歳の時に起業して「レスピラシオン」を開店させました。

建物は大家さんが金沢市の町家再生の助成金を活用して改修工事を行った築150年の町家で、元々は銀行の建物だったそうです。だから僕らは飲食店舗をつくるためだけの借り入れだけで済みました。当時、金沢にミシュランが上陸するかもわからないのに、僕らは勝手に星獲得を目指していて、ここなら世界中から人が呼べる星付きレストランとしてもふさわしいロケーションだと思いました。

起業で大変だったことは?

貯金がまったくなかったため、開業資金はすべて銀行からの融資です。手続きは数字に強い悠介が進めてくれました。広告料もなかったのでInstagramでの情報発信のみ。今は1万人以上のフォロワーがいますが、オープンしてから100人のフォロワーを集めるのに2ヶ月近くかかりました。それでも「ブランコ」の常連のお客様が多く来てくださって、集客には困らなかったです。

本当は今のガストロミースタイルでスタートさせたかったけれど、開業すぐにはやりたいことはできなかった。金沢で1万円、2万円を超えるコースを出すフランス料理店はざらにあっても、ガストロノミーレストランは北陸にはなく、全国でも数軒しかなかったから、オープンからいきなり2万円のコースじゃ一瞬で潰れていたはず。昼は1500円のランチ、夜は4000円ぐらいのプリフィクスコースから始めました。満席で2回転させても資金繰りが厳しい状況の中、大雪にも見舞われ、資金が足らなくなって大変な思いをしました。

それから、「ブランコ」での経験からいい食材はある程度把握していましたが、もっと値を張った質の高い食材探しにも苦労しました。ネットで調べたり、口コミを聞いたり、八百屋さんに直接聞いたり…。料理を盛り付ける器にもこだわって、100%石川の作家ものを集めてきましたし、オリジナルの器も多く制作してもらっています。僕と達郎はとにかく数字に疎く、つい原価を無視して食材もお皿も次々と買ってしまうタチで、「このままだと潰れるぞ」って締めてくれるのは悠介でした。開店当時は13名のお客様を入れていたのですが、お金がなくて1種類の皿を13枚揃えることすらできなかった。それでも悠介が経営状況を見ながらなんとかお金の工面をして「もう1枚買おう」と現金を持ってきてくれたことも。そんなふうに1枚ずつ揃えていき、今やっと満足にお皿が買えるようになりました。

厳しい運転資金をなんとかまかなうために、木倉町にスペインバル「コメール」を開店することにしました。骨太の郷土料理がコンセプトの店で、ここも「ブランコ」からのお客様が来店してくださったものの、コロナ禍で営業がままならなくなってしまった。食材の在庫処分のために何ができるかを必死に考えて、残っていた3パックのチーズを使い10個のバスクチーズケーキを作ることに。Instagramにあげてみると一瞬で売り切れて驚きました。悠介があと10個作ってみるかと言って、在庫処分のためのはずなのに食材を発注するという事態に(笑)。たかが10個ですが、目にもとまらぬ速さで完売したので、僕らのチーズケーキを本格的に販売しようと考えました。

以前、ある有名パティスリーのチーズケーキを食べて、世界一の味は違うと感動したことを思い出して、そのイメージに近づけようともう一度レシピを見直したところ、この味なら負けない! と確信できるものに仕上がりました。その時のインスタのフォロワーは4千人以上だったのできっと全国でも買ってくれる人がいるはずだ、と。「PiSO(ピソ)」の「しあわせチーズ」と名付け、レストランから独立させることにしました。もしレスピラシオンが失敗しても、このチーズケーキで一人でも多くの従業員を守れたらと思ったからです。

再びインスタに載せるとひと月で1300個の売れ行きとなり、急いで増産しても追い付かなくなるほどに。縁あって金沢駅構内でポップアップ販売からはじまり、今は常設店舗を構えることができました。まさに奇跡の連続、何も考えずに必死でやってきただけですが、わずか1年ぐらいの間でここまで成長できました。これから工場も本格稼働させていき、東京でのポップアップショップ販売も行います。洋食の世界に憧れて生涯かけてやろうとする僕らにとって、「金沢=和食・和菓子」と決めつけられるのはやっぱり悔しくて、洋菓子のお土産にこだわって作っていきたいんです。

店舗や料理、商品のブランディングはすべて自分たちで行っています。日本の最先端である東京と、世界のトップクラス・バルセロナの経験をもとに距離感を見ながら、北陸でどうやっていけばよいかを考えています。まずは金沢で目立つ、北陸で一番になる、全国で目立ち、世界を目指す。店のスローガン「金澤から世界へ」はそこから始まっていて、逆算しながらブランディングしてきました。

夢のミシュラン二つ星の獲得のための準備とは?

調べれば調べるほど山ほどの課題がありました。価格だったり、僕らが醸し出す空気だったり。とにかくミシュラン一つ星と二つ星の店に食べに行って自分たちの店との差を徹底的に潰していきました。ワインリストがあるかとかワインがいくらからなのかとか、課題を探して潰す、その繰り返しでした。そうやって潰し続けているうちに、周りから「そろそろ星が獲れるのでは」と言われ始めました。

店にウェイティングルームがあることが星獲得の条件の一つと知り、そのために同じ家主から新たに隣の蔵を借ることにして、急いで準備しました。山や平野など石川の自然をイメージした巨大な木製テーブルはオーダーメイドです。来店されたお客様はすぐにテーブルには通さず、まずここにご案内しておもてなしします。照明を落とした空間の中で漂う、石川県のあらゆる場所で採取した天然由来の香りと石川県をテーマに構築した音楽とともに加賀棒茶で口の中をリセットしてもらうといった趣向です。

今、三人で飲食の世界で起業する夢を叶え、そしてミシュランで星を獲る夢を叶えて、がむしゃらじゃなくても毎日コツコツ積み上げていけば、本当に決めた場所に絶対にたどり着くのだとわかりました。しかし、星獲得の瞬間からこみ上げてきたのは、喜びよりも「なんで三つ星を目指さなかったんだろう」という悔しくて情けない思いでした。天才だったらいきなり三つ星が獲れるだろうけど、「僕らなんかが三つ星を目指していいなんて」とか「夢のまた夢」と勝手に決め付けていて、三つ星に挑む勇気と覚悟が足りなかった。ならば次こそは逃げないと心に誓い、翌日から全部忘れて次に向かって行こう、と決意しました。またこれからコツコツと、今までやってきた通り、自分たちに足りないものを潰し続けて進むだけです。

金沢で起業する魅力は?

フランス料理、イタリア料理、中華料理、日本料理、トルコ料理といった料理のジャンルが確立した場所には歴史と文化がある。特に日本には四季の移ろいがあるのが大きな魅力です。そういった意味では、東京とは違って僕らは大地と海というバッグボーンがあり、さらに金沢、石川、北陸の食材と金沢の文化・歴史がある。それをうまく使えれば全国・世界レベルのビジネスとなる。これは真似したくてもできない特権で、使わない手はありません。だからここに帰ってきて本当に良かったと思っています。

これから起業する人へのアドバイスを。

極論になると思うんですが、やりたいか、やりたくないか。やりたくても “怖い” が勝つなら辞めればいいし、“やりたい”が勝つならやればいい。ただそれだけです。あとは自分の人生において後悔するかしないか。例えばお金がどう、環境がどうって言い訳している人は絶対無理だから辞めた方がいい。なぜなら、その後にもっと厳しいことがやってくるからです。

僕らは起業することに迷いはなかったし、二人以外に相談もしなかった。たった一つ迷ったのは、店をバルにするかレストランにするか。今の場所でバルをやれば必ず当たると思ったけど、失敗すればどっちが後悔するだろうかと考えたんです。一番後悔するのは絶対成功すると思ったバルで失敗すること、それならレストランを出して失敗した方が後悔しないんじゃないかって、レストランで勝負することにしたんです。

それとやっぱり家族の合意がないと厳しいですね。そのためには絶対やった方がいいと合意してもらえるぐらいの熱量がないと。なんで反対されるかというと、きっと不甲斐ないからでしょう。僕の場合は、家族が反対を言える雰囲気じゃなかった。「行くぞー!」っていうすさまじい勢いに、きっと誰も何かを言う隙間すらなかったと思います。ただ、親は僕が料理の世界に行くという時に、厳しいから辞めておけと何度も言いましたが、僕は「うるせぇ」って(笑)。

今後の展望は?

まずはコロナ禍の厳しい状況からなんとか抜け出さないと。そしてなんといっても三つ星を獲ることが目標です。さらには、三つ星を獲得して得られた力で、より良い未来のために還元したい。でなきゃそれはただの勲章ですから。自分にも息子たちがいるし、僕らを信じて付いてきてくれる20代、30代のスタッフにも結婚して子どもがいる人もいる。その子たちの未来も支えていかないと。

こんなに良い食材と環境に恵まれた石川じゃなかったら今の僕たちはありません。だから東京進出や店舗拡大はまったく考えていません。地域に還元するために僕らが貢献できることが何かを考え、金沢や能登で活躍する料理人たちに声をかけながら「NOTOFUE(ノトフュー)」という社団法人を立ち上げました。能登の豊かな資源や環境を次世代につなげるための活動です。例えば、サービス料の数パーセントを直接農家さんの収益に役立てるなど、いろいろと仕組みを考えているところです。生産者を結ぶこの取り組みを世界中にアピールして、石川県を世界中から訪れる価値のある場所に変えていきたい。例えばバスク、ミラノ、上海、香港と並ぶ、石川となる礎になれたらいいですね。それには、今の時代に合った泊まるためだけに価値のあるホテルが能登にできて、2泊3日で巡れるような魅力ある地域にならないと。そういったことを僕らの代で実現したいと考えていますし、料理人として20年間恩恵を受けてきた分、60歳まで地元への恩返しができたらと思っています。

「コメール」も今後は日本中からお客が来る価値があるバルになるよう尖がっていきたいですね。尖がって目立てば、僕らが何をしているか誰にも発信しやすいし、それが安全の道だと思っています。今後世界中から外資がどんどん入ってきたとしても負けない実力をどうやって付けたらいいのか。圧倒的な資金力のある大手にも真似できないような、尖がりきった僕らにしかできないことだけを突き詰めてやっていきたいです。

現在、社員12人、アルバイトは30人以上抱えるまでになりました。支えてくださるお客様はもちろん大切ですし、スタッフの支えなしではやっていけません。現場は部門それぞれのトップに任せ、任せた以上は僕たちがアルバイトに直接話すことはありません。今まで三人のパワーだけでやってきましたが、ここまで大きくなってくると何か大切なものがこぼれ落ちてしまうような気がして、これまで以上に店長会議を行い、指示系統をしっかり考えるようになりました。僕ら三人は役割を分担してそれぞれで動いていますが、いい食材といい作家さんはつねに探し続けていて、LINEですべての情報を集約するようにしています。だからここで三人が集まることはほとんどなくなりましたが、僕らは会わなくても大丈夫。やるかやらないか、行くべきか行かないか、言わなくてもわかり合えますし、絶対ぶれることがない。この三人じゃなければここまで成し遂げられなかった最高の仲間ですから。

2021.12 編集:きどたまよ 撮影:黒川博司