はたらこう課

Interview

リレーインタビュー

二番目に好きな洋服を仕事に選び、
通い詰めた竪町でショップオーナーに。

# 36

結城 裕則

HIRONORI YUKI

ショップオーナー

wax clothing/ Waynt Store

Profile

1980年、羽咋市柴垣町生まれ。高校卒業後、金沢市内のオリジナルTシャツやグッズ制作を手がけるプリントショップで2年勤務。21歳の時、柿木畠の古着店に就職し、販売や仕入れなどの業務に携わる。8年間の勤務を経て独立。2010年12月、竪町にアパレルショップ「wax clothing(ワックス クロージング)」を開業。’20年9月、油車に2店舗目「Waynt Store(ウェイントストア)」をオープン。’21年7月に、「株式会社 結城タクシー」の社名で法人化。国内外のブランド、オリジナルブランド、古着などの店舗販売、オンライン販売のほか、音楽やキャンプなどのイベント企画も手がける。

起業までのきっかけは?

僕の父は4人兄弟で、父以外の3人の叔父はみんな自営業をしていたことが影響したんだと思いますね。見ているとなんだか自由っぽくていいなぁ、と(笑)。僕が次男だからか、特に2番目の叔父さんからは「家を継ぐのは長男、次男坊は外で自分の城を築くもの。お前は自分でちゃんと稼がなきゃいけないよ」というようなことを言われて刷り込まれてきたんでしょうね。

僕の若い頃には裏原系とかヴィンテージといったファッションブームがあって、漠然と洋服が好きというのはありました。僕は実は音楽の方が大好きなんですが、ある人から「二番目に好きなことを仕事にした方がいい、一番好きなことは欲深く抱えてしまってお金にならない」と言われたことがあって、それを考えた時に確かに二番目に好きな洋服なら自分の私物も売りに手放しても構わないと思ったんです。

高校生の頃は学校の先輩たちと一緒に羽咋の洋服屋でバイトしていて、休みの日にはよく竪町に洋服を見に来ていました。学校の先生からは卒業後の進路についてしつこく言われても、最初から企業への就職など考えたことがなかった。家では祖父の友人の宮大工のところで働けと言われましたが、もし行っていたら今こうやってお店をやっているかわからないですね。自分で最初に履歴書を送ったのは大手CDショップでしたけど返事すら来なかった。それで卒業前に親の反対を押し切って、金沢に就職していた兄と一緒に住み始め、1ヶ月ぐらい竪町をぶらぶらしていました。あちこちで「金沢に出て来たんですけど、どうすればいいですかね」なんて言い散らしていたら、オリジナルTシャツを制作するプリントショップで人を募集しているからと紹介されて、作る方も楽しそうと思ってアルバイトで働き始めました。その頃は18歳という若さと次男坊という年下根性でしょうか、どうやって人から奢ってもらおうとか、どうやって飯を食わしてもらおうとかばかり考えていましたね(笑)。

成人式を迎えてたくさんの同級生たちに再会した時に、大学生だったらあと2年で卒業なのかと知り、自分もこの先どうしようかと考えました。またあちこちで自分が洋服屋に興味があると言い散らしていたら、通っていた古着屋のオーナーから手伝ってと言われました。最初はゴールデンウィークの間だけの予定で働かせてもらっていたんですが、それが終わると「アメリカへ買い付けにいくからもう少し店番していて」と頼まれて、帰ってきたら今度は「商品が届くから値段を付けて」と言われて、そこから8年(笑)。30歳を目前にして、次は自分の店をやってみたいと思い独立しました。

古着屋を辞めた次の日にはもう銀行に行って、融資の相談をしました。事業だから身銭を切ってやるわけにはいかないからです。これも「事業は借金とは違う」という叔父たちの教育です。高校時代の友人の友人が銀行の融資担当ということで紹介してもらい、高級車1台分ぐらいのお金を貸してもらいました。洋服屋は融資を受けづらいと聞きましたが、僕の場合は主に洋服の仕入れ分だけ、何千万円というわけでなかったので、事業計画書などの書類の書き方まで教えてもらいながらスムーズに融資を受けられました。

竪町の新規出店の補助金制度も申請しました。家賃の半分が2年間補助されるというものです。当時は竪町ストリートのテナントがすごく空いていた時期だったこともあって、本来は1階のテナント限定だったんですが、2階のテナントも補助金が出るということで2階に「wax clothing」をオープンさせました。

僕の中高のファッションの原点は竪町だったので、竪町で自分の城を構えるのは一番サクセス感があるかなと思いました。集客のために地方雑誌に広告を出したり、ホームページやウェブショップを立ち上げたりして、数年後にInstagramでも発信するようになりました。元々柿木畠で働いていたつながりでお客様も来てくれましたけど、竪町はウインドーショッピングの通りがかりのお客様も多いですから。

アパレル販売の仕事を始めてから20年経ちますが、洋服のあり方が変わってきていると感じます。例えば、今はInstagramで何人検索されているブランドだから欲しいというお客様も結構いますから、そういった世の中の流れに合わせて入荷する服も変えていっています。オープンして3年はアメリカ・カリフォルニアに行って古着の買い付けをしていましたが、自分の年齢が上がってきたことやお客のニーズにも応じて、ちょっとずつブランドの取り扱いを始めていきました。

古着というのは春に冬物をたくさん買い付けて売るのは半年先。先行投資をどんどんやっていくのに回収が遅いので、割が合っているのかわからないんです。買い付けに行く労力と滞在費、送料もかかりますから回収できているのかどうかは、肌感覚に頼るしかなかった。今は9対1か8対2の割合で新品が多く、古着も国内でも仕入れられるのでタイムリーに売っています。全世界の面白いと思ったものなら何でも扱っていますし、今は台湾のブランドが一番売れています。20代の感覚の店なので、20代のスタッフにある程度任せています。

年齢的な棲み分けと顧客の新規開拓を目的に、2店舗目の「Waynt Store」をオープンさせました。こちらは日本のブランドだけに限定して、30代から40代に向けた機能的で着やすいものを揃えています。2店舗合わせてだいたい30~40ぐらいのブランドを扱っているんじゃないでしょうか。

起業で大変だったことは?

オープンすぐから売上も順調で苦労したことは特段ないですが、ただやっぱり柿木畠での長い経験があることで、自分の中の必要以上の期待感に苦労しました。もっと人が流れてくるであろうとか、もっとお客が来るであろうとか、そういう気苦労みたいなものですね。

雇われていた時の社長の旗振りで動く店の運営とは違って、独立するとやるかやらないかは自分事となった分、責任の大きさが違います。特に始めたばかりの頃は、売上のことを考えると休めない時も多かったし、毎日朝早くから夜遅くまで店での滞在時間がむちゃくちゃ長くて、そういう意味ではコスパが悪かったですね。明日お客が来てくれるだろうかとか、来られた方たちにこの店をどう見せられるか、ということを考えて、やたら模様替えしていました。それ以外にも、固定ギアの自転車が流行っていた時はみんなで走るイベントとかキャンプとかも企画してきましたし、今も毎月第2土曜に「モウヒトツノドヨウビ」というDJ的なイベントをやっています。いかに人を巻き込むか、人が人を呼んで渦が大きくなる仕掛けをずっと考えてきました。

店をオープンさせて5、6年経った時、僕は35、6歳で、ちょっと世代間のズレを感じ始め、20代の人にバイト社員として働いてもらうことにしました。それ以降、若手スタッフまで夜だらだら引っ張らないよう早く帰るようになりました。朝だったらオープン時間が決まっているから、それまでにできることをある程度考えて進められるので、今は朝9時に来て、夜は閉店したらすぐに帰ります。洋服屋って開店前ギリギリに来て夜に粘る人が多いですが、取引先は企業なので終わってしまうから本当は夜にいても意味がないんです。

それと、徐々に新品が増えてきた時期の仕入れ額と利益率は古着とは比にならなくて、仕入れすぎた時の失敗感が大きかったですね。古着は極端にいえば100円のものが、ヴィンテージなら200万円にもなって儲けの幅が大きいですが、新品は価格設定に対して契約上の割合が決まるわけで、そのウェイトが大きくなってくるとなかなか大変で。新品はシーズンと流行りの鮮度があるので目利きが問われます。それもこれまでの経験からある程度感覚が掴めていけたのかなと思いますが、東京でアパレルオーナーの友達からも東京の流行りや新しいブランドの情報などを教えてもらって仕入れの参考にしています。以前は東京での流行がちょっと遅れて金沢に来ましたが、今はSNSの影響で時差がなくなってきました。

店を構えて10年が経った頃、いよいよ2店舗目を出そうと元不動産屋の建物の賃貸契約書にハンコを押したのがコロナ禍に入りつつあった2020年3月。その直後に緊急事態宣言が出され、この先どうなるかわからない状態となり、店の準備をストップしたまま家賃を支払い続けることに。ゴールデンウィーク明けから状況が少し落ち着いたこともあり、どっちにしたって暇でしたし、スタッフとの接触を減らすためにも、自分で内装工事を始めました。実は僕は工業高校の建築科を卒業していてこういうことも得意で、試着室の扉を自作して、床もクッションフロアをめくってモルタルを敷きました。オープン前に資金回収のために私物の洋服も販売しました。9月になってようやく「Waynt Store」を正式オープンさせることができたんです。

昔は洋服屋というのは店の鍵を開けて売って帰るだけだったんですけど、ブログを始めたり、オンラインショップのための写真撮影をしたりと、雑務が増えましたね。SNSやオンラインショップを見てブランド目当てで商品購入される方が多いですが、まだまだ店頭での販売が主流。やっぱり店を開けて目の前で売れていくのが理想なので、実店舗をしっかりしないと。

2021年に法人化したのは?

きっかけは2店舗分の棚卸し在庫が収入見込みの資産という扱いとなり、現金化されていない年収が大きくなり、それにともない、個人事業主としての税金や健康保険料などの負担がものすごく多くなったからです。同じ払うのなら、スタッフの福利厚生の方をちゃんとした方がいいと思い、法人化しました。社名は「株式会社 結城タクシー」、「お客様の夢と笑顔を乗せて」がテーマです。親父がタクシー会社で40年ぐらい働いていたので、そのリスペクトとあと半分はディスりの意味も込めました(笑)。ただ、どこの飲食店に行ってもお客さんを紹介してあげるから電話番号を教えてと言われてしまい、そこはちょっと失敗したなと思うんですけどね(笑)。

金沢で起業する魅力は?

ほんのちょっと東京に行こうかなと思ったことがあって、試しに友達の家に泊まって東京のブランド会社の面接に行ってみたら、「住んでから来てよ」と言われました(笑)。でもやっぱり、「洋服といえば竪町」という若い時からの憧れもある金沢が魅力的なのかなと思います。洋服屋としては竪町は今は寂しいですけど、それでもだいぶ洋服屋が増えてきていますし、これから古着屋も3軒ぐらいオープンするみたいです。しばらく金沢駅前に若者たちが流れてしまっていましたが、最近になって竪町の存在を初めて知る子も増えてきて、少しずつ竪町にお客の流れが戻ってきている気がしています。僕らみたいな個人で新しいブランドを発信するのと、大手のビルナカテナントとはやり方が違いますからね。それと、僕が開業した頃はクルマで店の目の前に着けて買い物する郊外化が進んでいたのもあって「なんで竪町でやるの?」とよく言われたものです。今も郊外で店を出す人も多いですが、郊外だからできること、竪町だからできることがそれぞれあると思いますね。

これから起業する人へのアドバイスを。

あまり何でも細かく調べないでやった方がいいと思います。まずは自分がやりたいことをかたちにして、そこから肉付けしていってそれぞれのできることをやった方がいい。「洋服屋をやりたい」と若い人から相談されることがよくありますし、その後実際にお店を始めた方もいます。好きなものを仕事にしているというのは、大変なのは大変ですけど、考えてみたら有り難いことですよね。

僕自身も起業する時に不安がないことはなかったですけど、やってみなきゃわかんないし、ダメだったらやめるしかなかった。先にあれこれ知っちゃうとできないのでまずはやってみることです。

今後の展望は?

すでに洋服屋2店舗を経営しているので、これ以上店舗を増やすというよりも、仕入れだけじゃない、自分たちの店でできることを、自分たちの店から発信することに力を入れ、そのコンテンツを増やしていきたいです。従来の仕入れて売るだけのアパレル業界は厳しいと思いますから、これからはここでしか買えないものを作っていかないと。

「wax clothing」では、ジャケットやパンツなど、ブランドに別注をかけた商品を展開していますし、「Waynt Store」では店オリジナルのシャツやキャップを作って販売しています。ただし、洋服のパターン(型紙)を引くのはできないので、東京のデザイナーの友達に頼み込んでやってもらっています。付き合いのあるブランドにダメ元でオリジナルのシャツを作りたいと電話してみて、OKを出してくれる場合も。イメージに近い元ネタを持っていって、「こういうシャツを作りたいんだけどどう思います?」って意見を求めていくんです。

それから、今までやっていなかった「Waynt Store」のオンライン販売を強化していきたい。どうしてもSNS発信は一瞬で消えていきますし、写真撮影や映像制作のスキルのある若手スタッフが入ってくれたので、それを活かさない手はありませんからね。客層と同じ年代の僕が自らモデルになって撮ってもらっています。そのためにダイエットも頑張りました(笑)。実際、この年代はちょうど家庭を持ったり、家を買ったり、給料や雇用情勢の変化だったりと、洋服屋に行く機会が減っているので、店でお客を待っているだけでは難しい。金沢だけでなく全国をターゲットにして発信していきたいと思います。

今、「wax clothing」の方は20代のスタッフが次々と新たな企画や商品展開を仕掛けていくのを応援する仕事に徹しています。ただ僕もアパレルにずっといるからこそ思うこともあり、「俺ならこうするかな」とディスカッションすることも。この先、自分が歳を重ねていくと、20代へのカッコいいもののアプローチは難しくなるでしょうから、若いスタッフたちが育っていってくれるといいし、彼らが頑張ってくれるのをサポートしていく側になればいいと思っています。

2022.04 編集:きどたまよ 撮影:黒川博司