はたらこう課

Interview

リレーインタビュー

遊びから繋がるモノや人脈を活かし、
スニーカーを軸にしたブティックを創業。

# 14

居村 宗一

MUNEKAZU IMURA

アパレル店経営者

IMART

Profile

1979年、石川県能美市生まれ。高校中退後、片町や竪町の洋服店に勤務。販売員、店長、マネージャーとスキルアップしながら、経験を積む。2006年5月、香林坊にスニーカーブティック『KICKS & GARMENTS  IMART(アイマート)』を開業。国内外のセレクトスニーカーとストリートウェアを扱う。’08年、タテマチストリートに店舗を移転。買い付け、販売、経理など、すべて一人でこなしている。

起業のきっかけは?

中学生の頃からスケートボードが大好きで、そこからストリートファッションに興味を持つようになりました。スケボーって、人の目に触れることが多いんですが、動きが激しいから服やスニーカーがすぐに汚れたり破けたりするんです。汚いものを身に付けているとやっぱりカッコ悪いし、どんどんカッコいいものを探すようになるうちに、スニーカーにハマってきたんです。

それもあって、僕は高校を中退した後、アパレルの世界へ。竪町のラポルトの中にある洋服店で働き始めました。片町や竪町にある洋服屋を3軒ほど経験しました。アパレルの世界は、見た目ほど煌びやかなものじゃない部分も多く、服を売らなきゃいけないだけではなく、バックヤードでは在庫整理や計算、発注などもしなきゃいけない。地味な仕事も多いですね。ご飯を食べる暇もないぐらい忙しいんです。でもこの仕事を通じて、東京のブランドの担当者とのコネクションが生まれました。

1社目の洋服店がなくなってしまうことになり、2社目に選んだのは、自分の好きなブランドを取り扱ってくれた店です。そこの社長が、頑張ればいつか僕に店をくれるというような話をしてくれ、それにちょっとだけ期待していたところもあって…。その会社の系列店を含めて8年ほど務めた頃、ためしにそのことを社長に聞いてみたら「そんなことあるわけがない」との答えが返ってきました。

働き始めた時から、「自分の店を持ちたい」という目標がありました。だから、この先ずっと人の下で働いていても意味がないと思ったんです。もちろん自分にとって、そこでの仕事はとても勉強にはなりましたけどね。いろんな人に相談した中で、「そのブランドだけが全てじゃない。やろうという気持ちがあれば何でもできるはず」という、ある先輩の言葉がすごく励みになり、自分で店をやろうと決意して、会社を辞めました。

独立起業の不安や苦労はなかったですか?

もちろん不安はありましたけど、もし失敗したらローンで高級車を買って事故ったと思えばいいかなと。それより、働いていた店を辞めてわずか3ヶ月でオープンさせたこともあって、物件探しやからすべてがバタバタしてばかりでした。

お店のコンセプトは、以前外国に行った時に出会ったスニーカーブティックが、すごくカッコよくて強い印象に残っていたんです。僕は、そういう金沢にはない、自分の好きなブランドのスニーカーとそれに合わせたストリート系の洋服をセレクトするスタイルの店をやりたかったんです。といっても、肝心の商品が揃わないと何も始まらない。そこで日本未発売のスニーカーを手に入れるためにアメリカへ買い付けにも行きました。僕はこれまで海外への買い付けなんていう経験もなかったので、それは大変でしたね。今では海外や県外に仲間もたくさんできて、商品の仕入れは以前よりスムーズになりました。遊びに着る服やスニーカーだから、遊びながら出来た多くの仲間が、この仕事にもつながっているんです。

お金を借りることにも苦労しました。最初に商工会議所に相談をしたら、創業者支援融資というものがあると聞いたので、さっそく銀行に行って依頼してみると、担当者は鼻にもかけない様子で、融資は受けられませんでした。その頃はまだ創業者支援の融資制度もまだまだ浸透していない時代なのもあったんでしょうが、世の中ってこういうものなのかと、不条理さと感じましたね。結局、信用金庫で創業者支援融資を受けることができました。あとは自己資金でまかないました。お金に関しても、東京でブランドを立ち上げた先輩から「何かやりたければ絶対先立つものが必要」とアドバイスをもらったことがあり、少しずつお金を貯めるようにしていたのがよかったです。オープンの宣伝は無料のものだけ載せたくらいで、後は店のステッカーを作成して、スケボー仲間やクラブなどで配りました。

開業時は、まだ洋服バブルが残っている時代でした。でもお客さんは全然来なくて、店をやるのはそんなに甘くないと思い知らされました。元々ブランドネームの大きい店で働いていたとはいえ、そのブランドが無ければただただ自分の無力さを感じましたね。でも、今振り返れば、それは逆によかったと思っています。ブランドネームにばかり頼っていたら、その時は調子良くても今まで続かなかったんじゃないかな。

最初はインポート中心、日本にないものばかりを扱っていましたが、時代の流れやお客のリクエストに応じて、扱うものは少しずつ変化しています。ファッションの流行は常に意識はしていますが、商品のセレクトには落とし込んでいません。なぜなら、流行を追いかけ続けなきゃいけなくなると、自分もブレてしまって続かないからです。

2008年に、竪町に移転のために銀行へ融資を申し込んだ時は、すでに経営実績があったことで、開業時とは比べものにならないほどスムーズに運んで嬉しかったです。開業時には空きがなかった竪町でちょうど良い物件を見つけられた時は、テンションが上がりましたね。ただし、全てのことを一人でやらなきゃいけなくて、移転準備の労力は半端じゃなかった。名刺の作成や電話、インターネットの変更手続き、取引先への連絡など細々したことはもちろん、何よりもたくさんの商品を自分の手でひたすら運んだのが一番大変でしたね。

金沢で起業する意味についてどう考えますか?

僕は能美市出身、その頃はインターネットも今ほど盛んじゃなかった時代だったし、地元石川でやるなら金沢以外は考えていなかったですね。金沢は、ローカル密着型でありながら、金沢以外のお客も多く来てくれる場所だと思います。それに竪町は元々自分の遊び場所でしたから、仲間も多いんです。一時期、東京や名古屋での出店を考えていたこともありましたけど、それぞれのエリアに知り合いが増えてくるにつれ、同じブランドを扱っていると難しくなってくる。但し、金沢は同業者間での先輩後輩の関係はちょっと厳しい土地柄かもしれませんね。同じ系統の品揃えにならないよう、都会よりも気にしながらやっていかないといけない部分があるかもしれませんね。

これから起業する人へのアドバイスを。

貯めたお金は意外とすぐになくなってしまうことは覚えておかないと。モノを売る商売は、思ったように売れないし、信用がないと買ってもらえない。出来たばかりの店ならなおのこと。最低限のことをしっかりやらないと失敗します。例えば、僕は時間にとてもルーズで、開店時間になってから銀行に行ったり、友達の店で話していたりして、店を留守にしてしまうことがよくありました。「開いていない店に客は来ない」と前の会社の社長から言われた言葉をふと思い出して、すぐに改善しました。僕が起業した当時26歳、自分の店を持つには若過ぎたのか、当たり前のことに気が付くのが遅かった。

それから、スピード感も大事にしています。商品が届いたら、すぐ店頭に並べるのももちろん必要だけど、すぐにホームページにアップするように心がけています。今やインターネットが情報源というお客がほとんどなので、地下スペースを利用して自分で商品撮影を行って、アップするのを怠らないようにしています。

そうやっていくうちに、信用を少しずつ取り戻せたのか、経営が軌道に乗ってきたのはオープンして3、4年目ぐらいですね。僕は手探りで試行錯誤してやってきましたが、やはりきちんと事業計画を立てた方がよいんでしょうね。

今後の展望は?

僕はアパレルのことしかやってきていないし、それしかできない。だからこの仕事はずっと続けていきたいと思います。ただ、この形態の中でできる、面白いことをやりたいと考えています。たまに地下スペースで友人の写真や器などの作品展示やパーティーを開催していますが、今後はそういったことをもっと活性化していきたいですね。

僕は、ファッションストリートと呼ばれる竪町の移り変わりをすでに何十年も眺めてきました。昔は週末ともなれば人でごった返していたほどでしたが、今では少し人通りが減ってきました。テナント料が高いのもあるし、洋服屋、特にレディスの店が減ったことで、以前に比べると若い世代の人の流れが少なくなっていて、個人的には寂しく感じています。だから、少しでも何か面白いことをやって人が集まればいいなと思います。

でも、もしこの竪町がもっと衰退したら困るかと言われれば、逆に自分の好きなことがもっとやれるんじゃないかもと考えるんですよね。例えば、路上駐車をできるようにするとか、店の前でコーヒー売るとか、もっと自由になりそうだし。昔、子連れの歩行者にぶつかると危ないからと自転車の乗り入れが禁止になった時代もあったんですが、それじゃ若者が来なくなるのも当然。それだけが理由じゃないと思いますが、そういったややこしい規制をなくせば、もっと人は来るんじゃないのかな。

編集:きど たまよ  撮影:黒川 博司