はたらこう課

Interview

リレーインタビュー

設計士の視点から不動産価値を見極め、
未来につなげる活用法を模索する。

# 28

永井菜緒

NAO NAGAI

建築家

SWAY DESIGN

Profile

1985年生まれ、小松市出身。愛知工業大学卒業後、都内の店舗設計施工会社などを経て、2014年、一級建築士事務所『SWAY DESIGN』を開設。空き家となっていた実家をリノベーションし、フロントデスクを兼ねた蕎麦屋兼リノベーションルームを運営。’18年、『株式会社SWAY DESIGN』として法人化。住宅・オフィス・店舗のリノベーションを多く手がける傍ら、設計者の視点から物件の価値や課題を整理し、不動産の有効活用を提案する不動産事業部を開設。店舗計画が実行可能か法的調査を行う「カフカリサーチ」、解体コンサルティングサービス「賛否解体」、中古物件買取再販サービス「よいチョイス」の事業を展開。一級建築士、宅地建物取引士。

起業までのいきさつは?

とにかく勉強をしたくないという理由から、高校は普通科を選ばず、地元小松市の工業高校へ進みました。それでも美術や技術のような、ものをつくる科目は好きで、たまたま選んだ建築科で良い先生に巡り合い、建築の世界に目覚めました。建築を学ぶ中で、これまで苦手だった5教科の必要性を痛感してからは、意欲的に勉強するようになりました。とはいえ、進学したいと思った時にはすでにもう遅かったんです。建築業界は、おおまかにゼネコン系かハウスメーカー、アトリエ系かに分かれますが、大学選びでほぼ道が決まってしまう。就職が主流の工業高校では、選べる大学が限られ、自分の選択肢にあるどの大学でも、有名建築家のゼミ生になることも、アトリエ系の建築事務所に就職することも到底叶わない。入りたいと望む以前に道が閉ざされていたので、それとはほど遠い道に進むしかなかったんです。

就職は単純に都会への憧れから上京し、店舗の設計施工会社に就職しました。ちょうどリーマンショックの年だったので建築・不動産業界も少なからず影響を受けて、計画していた建築物も中止になったり、新入社員の内定取り消しになったり、入社時から業界の厳しい社会情勢を実感させられました。最初は仕事についていくのに必死でしたが、慣れてくるにつれて、大手チェーン店の店舗計画が主体の仕事に対して、誰がつくっても同じなんじゃないかという思いがもたげてきて、やりがいが感じられなくなりました。働き方もハードだったこともあって、建築の世界にいること自体が辛くなり、2年半で辞めました。今から思えば、仕事の効率化や、品質の追求など得るものも多かったのに…自分が未熟だったんです。

その後は都内の建築事務所でバイトをしたり、地元に戻って設計施工をやっている人のところで働かせてもらったり、WEB業界に足を踏み入れたりと1年ほどフラフラしていました。それでも、建築業界への思いも捨て切れなくて、1級建築士取得のために学校に通い、勉強を始めました。学科試験に合格した段階で、知り合いのつてを頼って、東京で再就職。古い建物の用途を変更して、シェアハウスやシェアオフィスをつくる会社でした。そこでは、建物をただキレイにするのではなく、市場調査などを行って、売れるか、人が入るかを検討して、ビジネスとしての建築がどうあるべきかを考えてつくるという取り組みに力を入れていました。「設計=作品」といったアトリエ系とは違う、建築業界での新しい働き方に魅力を感じました。

その頃、東京ではホテル建設ラッシュが始まっていました。金沢にはまだその動きはなかったので、ビジネスホテルではない宿泊施設を地方でつくったら面白いんじゃないかと思って、いつかできたらいいなと、地元にUターンして起業することにしました。

起業の準備で大変だったことは?

設計事務所というのは、飲食店や物販店のように、オープンのための場所や設備の準備はなく、開業届を出して、今日からと言えばスタートできる業界です。用意したのはパソコンとコピー機、名刺ぐらいで、融資も必要ではなかったので、立ち上げること自体は大変だとは感じませんでした。事務所は、小松市に起業家の育成のためのインキュベート施設が出来たと知り、家賃もお手頃で面白そうだと感じて入居しました。

起業への不安はありませんでしたか?

開業資金の借り入れがなかったので、ダメなら東京でまた働けばいいし、起業自体への不安はありませんでした。両親も商売をしていたこともあって、会社員を辞めることに抵抗はありませんでした。

でも、大変なのは起業してからでした。開業の告知は何もしなかったので、ここから先は何もすることがないという状態からのスタートでした。建築設計は、ものをつくってから売る仕事ではないだけに、第一の信頼を得るための実績が地元にないことも大変でした。結局、1年ほどは地元の建築会社から図面作成の下請け仕事を続けているばかりで、ただ悶々とする日々を送っていました。次第に、このままでは先がないし、こんなことをしたくて地元に帰って独立したわけじゃないのに、と自分自身にも苛立ちを感じてきました。

そんな時、ふと振り返ってみると、自分がこれまでやってきた仕事は、投資して回収するという、いわばお荷物になっているものを企画と建築の力で再生してきたことだ、と気づきました。それなら、人がつくった事務所に賃料を払って借りている場合じゃない、4年ほど空き家になっていた実家を活用して事務所を自分でつくろう、と。それが最初の空き家活用事例にもなると考えました。

リノベーション費用を金融機関から借り入れする必要があったので、父から実家の建物を生前贈与してもらうことに。毎月の支払い額や何年活用できるかといったことから投資額を検討して、総予算を確定させていきました。融資の申し込みから設計、設計監理、計画と、完成までの道のりはとても大変で、起業2年目が本当の創業準備といえる時期となりました。

ただ事務所にするだけじゃなく、この場所が一定の収益が得られるように、一角をつかって母に蕎麦屋をやってもらうことにしました。両親がやってきた蕎麦屋を兄夫婦が引き継いだこともあって、父はそのまま手伝っていましたが、母は、女将は二人も要らないからと引退したんです。しばらくゆっくり過ごしていましたけど、やっぱり誰とも会わないのは客商売をしてきた母の性に合わないみたいで喜んで引き受けてくれました。お店には近所の人や蕎麦屋時代の常連さんが来てくださったり、口コミのお客様も増えてきたりと3年目には軌道に乗せることができました。有り難いことに、今では予約がいっぱいになるほどの盛況ぶりで、去年、母は個人事業主として独立しました。父も兄の蕎麦屋を辞めて、畑で野菜をつくりはじめ、母といっしょに働くようになって、メニューを増やし、お店も拡張しました。実のところ、父は空き家だった実家の改修については、「誰も住んでいないのに今さらどうするのか」と最初は賛成してくれませんでしたけど、今は両親二人が喜んで働いている姿が見られて、やってよかったと思います。

蕎麦屋兼事務所をつくったおかげで、設計の考え方に共感していただく機会が得られ、小松でフレンチの店舗を手がけさせていただくことが決まりました。それがリノベーション請負の第1号です。その時は工務店とのつながりなどなかったんですが、幸いにも以前の現場監督の経験が活きて、私が工事まで請け負って現場に入りました。左官などの職人さんは、知り合いの大工さん経由で探してもらって、どんどんネットワークを広げていきました。

法人化した理由は?

それまでは、東京でお世話になった会社が宿泊事業も立ち上げるとのことでその手伝いもしつつ、東京と小松の2拠点で活動していました。さすがに1週間に一度のスパンで、東京と小松の行き来をするのがしんどくなってきたし、石川で大きな規模で仕事をやりたいと思っても、1人でやることの限界を感じていました。石川でやるのか、これまでの東京の行き来を継続するのか迷いはありました。でも、地元にも待ってくださるお客様がいることが支えとなって、石川で本格的にやろうと決めました。去年法人化して、2人のメンバーが加わりました。あくまでも師弟関係ではなく、社員としての受け入れです。これで会社は自分一人のものではなくなり、「やーめた!」なんていうことが出来なくなりましたけどね(笑)。

そうはいっても、会社として人を雇ったことがないので、最初はどうチームづくりをしたらいいかわかりませんでした。1人が設計から完成まで責任を持って施主さんとお付き合いするやり方も検討しましたが、いろんなプロジェクトが同時進行しているとなかなか難しい。しかも、一人ひとりの経歴も違えば、仕事をマニュアル化して、型にはめられるものでもない。「大手建築会社の小さい版」をやったところで戦う場所じゃない。だから、効率的ではないかもしれないけど、得意な人が得意なことを担い、フェーズごとに色んなスタッフが入れ替わるスタイルに切り替えました。

改修工事に対しては、「うちにしか出来ない答えが出せる」のが信条です。建築業界は一般的に知らない人がつくった建物に責任を負いたくないから、建物を壊してゼロから考えたがる。これが一番安全側の判断だからです。設計というと、デザインの表層的な部分を取り上げられがちですが、暮らしや働き方を考え、結果として建築はどうあるべきかを考えるのが設計者の仕事だと思っています。だからうちに来てくれたお客様には一通りのサービス内容の説明をしています。設計・インテリアデザインのほかに、例えば、建物をまるごと飲食店などに使えるか法的側面から調査する「カフカリサーチ」、新築か賃貸か以外の住まい方の選択肢を増やすために、中古物件の選定、設計、改修を自社で行い、再度市場に流通させる「よいチョイス」、壊すか残すかの段階から設計者が関わることで依頼者の課題を解決する「賛否解体」といった不動産のコンサルティング事業を展開しています。建物をただ残すだけじゃなく、場合によっては解体を勧めることだってあるし、元々の設計業務についても、「うちはこういうパターンです」という定型を持つことはしたくない。この人だから、この場所だから、他に置き換えがきかないものをつくりたいと考えています。

金沢で起業する魅力は?

東京には面白い人やものがたくさんありますが、入れ替わりも激しく、一つのものをじっくり育てる感覚を得にくかったです。それに自分の代わりはいくらでもいて、自分が抜けても誰かがそのかたちをまたつくっていけるという気がしました。地元に戻って来て一番感じるのは、反応が直接的に見えること、つまり施主さん自身の声やそこを訪れた人の感想や評価が聞けるということです。また自分が手がけた物件が、「SWAY DESIGNの建物だって知らなかったけど行ったことある」と言われるように、多くの人に間接的に知ってもらえるのも、東京では感じられない嬉しい感覚。一つ何かが出来た結果、そこから派生して人とつながったり、依頼がきたり、次の何かのきっかけがつくられていくのが、金沢で活動する魅力ですね。それは、東京に出てみてわかったことであって、ずっと地元に居たらこの地の特性やいいところも気づけなかったんじゃないかと思います。

県外から遊びに来た友達からは「文化が身近なところで根付いている」とよく言われます。普段は意識することはありませんが、季節の行事やイベントが当たり前に残っていますし、地元の漆器や焼き物が暮らしの中にある。そんな金沢のような歴史のある場所は面白いです。私が生まれ育った小松市も城下町で、一部ですが特色ある建物が残っています。ただ、当たり前の景色だからなのか、当たり前にどんどん壊されてしまう。そういうものをこの仕事を通じて残していけるように、もっと意識的になれたらと思っています。

これから起業する人へのアドバイスを。

大変なことは尽きないけど、昨年の自分だったら乗り越えられていないな、といつも感じています。自分のやれることが増える分、いただく仕事や状況も大きくなっていて、起業してまだ5年ですが、創業した頃は今の様な状況になることは想像もしていませんでした。

小松の事務所の立ち上げ時、融資手続きのため事業計画書の作成にかなり大変な思いをしました。今になって見直してみると、3年後とか5年後のことをわからないながらも書いたことが意外と実現できていることにおどろきます。そうやって何年後かに自分を振り返ることは有意義です。そのためにも、融資を受ける、受けないにかかわらず、しっかりこれからの計画を立ててみることをお勧めします。

起業が良いか、会社に勤めるのがよいかは人それぞれです。何をしていても楽しいこともあれば、大変なこともあります。今の仕事もつねに楽しいことばかりじゃなくて、途中で逃げだせたらと思うこともたまに。でも、どれだけしんどくても終わってみたら、やっぱり私にはこれしかないと思うんですよね。

やりたいという思いがあるならやればよいし、やった結果また新しい楽しみ方や課題も見えるはずだから、その時に継続するか否かを判断すればよいと思います。想像力はいい方にも悪い方にも膨らみます。どれだけいろんなことを考えたところで予想外のことが出てくるものだし、悩んでいる間は苦しい。だから、まずはちょっと勇気を出して動いてみることです。そうすれば何かが見えてくるはずだと思います。

今後の展望は?

自分がやりたいと思うことを実現できる会社がなかったから、私は起業しました。だから、いつまでも自分が入りたいと思える会社をつくり続けていきたいと考えています。この先会社にいても自分はどうなるか可能性が見えないのは不安な気持ちになるものです。いい意味でやれることを広げていけるような会社をつくっていきたいし、社員にとっても、ここより面白いところがないと思ってもらえるよう、会社全体の魅力と能力を継続して上げていきたいです。たまたまスタッフは女性ばかりですが、結婚や出産といったライフステージに応じて、委託などの働き方も整えていきたいと考えています。

それから、できればいつか蕎麦屋とは違った自社運営の店舗をつくってみたい! おいしいものが食べられて、いいものが買えて、おうちづくりや店舗立ち上げの相談ができるような場所をつくりたいです。

私たちの事務所はよく引っ越しをします。今は、ほとんどが空き部屋だったマンションを丸ごとリノベーションした一室を事務所にしています。人の流れが生まれれば面白くなるという考えから、1階は店舗に、2階以上は住居にしました。鍼灸院や雑貨店、ヨガスタジオが入って、1年前にようやく満室稼動に。この場が盛り上がったのをしっかり見届けたら、この場所は卒業して、また新しい拠点に移って盛り上げていくつもりです。

2019.12 編集:きどたまよ 撮影:黒川博司