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2022.03/28 起業家紹介

起業家紹介_vol.13 山本周

互いに照らし合い、更新していける関係性

山本周

1985年新潟県生まれ。金沢美術工芸大学環境デザイン専攻を卒業。金沢美術工芸大学大学院 修了。長谷川豪建築設計事務所勤務。2015年に独立し、2017年に金沢に移住。設計の仕事の傍ら、金沢市の住民が作り出した風景を収集する活動『金沢民景』を主宰。金沢美術工芸大学非常勤講師。 金沢工業大学 非常勤講師。

近代建築、下町、新興住宅街…
遊びついでに建築探訪

生まれは新潟県で、けれど数ヶ月で埼玉に引っ越し、さらに小学2年の時に神戸市に引っ越しているので、地元を聞かれると神戸と答えています。
神戸の街なかには近代建築がたくさん残っていて、百貨店から馴染みの古着屋まで、自分たちがよく行く店もそういった建物でした。なので、遊びに行くついでによく自転車で建物を見て回ったりしていたんです。
神戸の中でもエリアによって特色があって、銭湯や木造住宅が残る下町や、僕が住んでいたような新興住宅街もある。そのギャップも面白かったですね。

そんな環境で育ったので、建築物には自然と興味を持っていました。とはいえ高校生の僕には「建築」というものが何なのか理解できておらず、理系分野の学問だということすらあまり分かっていませんでした。理系科目は苦手だったので「ならば絵で入れるところを」と、金沢美術工芸大学の環境デザイン専攻を受験します。
入学して金沢に来てみると、神戸よりも古い建物が多いし、その年代も様々。宅地造成などもあまりされていないので自然の地形もたくさん残っている…そのすべてが新鮮で。デジカメを持って街歩きをしては、気になったものを撮り溜めていたんです。友達の家のサーバーを借りて、ホームページを作ったりもしてました。(卒業時に「消してもいい?」って言われてもう残ってないのですが。笑)

“アトリエ系”での修行時代

大学で「建築家」として雑誌に出ている人たちも見て、“アトリエ系”の設計事務所があることを知りました。藤本壮介さんの事務所に在学中からオープンデスクとして事務所に通い始めて、大学院修了後もトライアルとして働かせてもらっていたのですが、長谷川豪建築設計事務所を紹介してもらって訪ねてみたら、運よく人を探していた時期で働かせてもらえることになりました。

そこでの毎日は、めちゃくちゃ楽しかったですね。もちろん辛いことを言い出せばきりがないのかもしれないですけど(笑)、とても刺激的でした。
自分が担当させてもらった仕事がメディアに載って、いろんなところで批評や議論がなされている。そのことが、いちスタッフとしても楽しくて。7年間働かせてもらっているうちに、気づけば木造・鉄骨・RC造そして内装と、一通り経験を積ませていただいていて「このまま残るか、独り立ちをするか」と考える時期に差し掛かっていました。

自分も「いずれは」と思っていましたし、長谷川さんも「いつか一人で建築をつくれるように」ということを念頭に置いて育ててくださっていたように思います。ちょうどその頃結婚し、妻もデザイナーとして独立するタイミングだったので、僕もこの機に独立することにしたんです。

都市がガラッと変わる瞬間に立ち会う

独立当初は浅草にいたのですが「なんで自分は東京にいるんだろう?」という問いが頭に浮かぶようになって。だからといって神戸に戻るのもしっくりこない。そんな時、学生時代を過ごした金沢が「ものをつくる時に良い街」だと思えてきたんです。当時すでに北陸新幹線も開業していましたし、何かあればすぐに東京に出ていくこともできる。子育てするにも環境が良い。そこで、2017年に金沢に移住しました。

金沢を強く希望したのは僕の方だったのですが、それにはもう一つ理由があって、それが『金沢民景』だったんです。
学生時代にやっていた路上観察を「独立して自由に時間を使えるようになったら、何らかの形にしたい」という想いがありました。しかも、それは「いつか」ではなく「今」じゃないといけない。
当時北陸新幹線が開業して、街がものすごいスピードで変わっていた時期でした。都市がガラッと変わる瞬間に立ち会えることって、そうそうない。だから自分はその現場に身を置いて変化を中から見届けたい。そして、自分の好きだった街の景色が消えてしまう前に写しとっておきたいと強く思っていました。

鍛えた「筋肉」の「使い方」がわからない

なので、金沢に来てしばらくは『金沢民景』ばかり作っていました。逆にいうと、それができるくらい設計の仕事が当初なかったんです(笑)。

フリーランスになって気づかされたことが、仕事の取り方に始まり、対価はどれくらいが妥当なのかなど、「お金の稼ぎ方」というものにあまりにも自分が無知だったということでした。
会社員時代はお金のことを考える間もないほどに忙しくて、ただ「建築」のことだけを考えていればよかった。だから自分としては「設計の筋肉」は鍛えられてムキムキになったつもりでいたんですけど、一度外に出た瞬間、その「使い方」が全くわからないという…(笑)。
なので最初はものすごく安請け合いしてしまったり、入金のタイミングを考慮していなかったり、お金の算段が下手すぎて「マジでお金がない!」と焦ったことも少なからずありました。

ちゃんとバカにしてくれる人の存在

そしてもう一つ、独立して気づかされたことの一つが「対話相手がいる」ということのありがたみでした。当初は一人で仕事をしていた僕が、途中から長谷川豪建築設計事務所の後輩だった小林栄範君と一緒に組んで仕事をするようになったのにも、そういった経緯があります。

一人で仕事をしていると、自分の中で思考がグ〜ッと一つに絞られていってしまう感覚があって、自分が作るものになかなか「客観性」を持てないことに行き当たっていました。会社員の頃は、長谷川さんや同僚が対話相手になってくれていたので、「会話しながら自分の考えを更新していく」という癖が付いていたんですね。それが失われてしまったときに、何だか上手くいかないなと。
そんな時に小林君もちょうど独立したので、組んで仕事をしてみたらスムーズにいくようになって。小林君は、僕が無意識にこだわってしまっている部分などをちゃんと指摘してバカにしてくれるし、疑ってもくれる。特に自分のことって、人と話してみないと気づけないものなんですよね。だから今でも間違った事言って、ちゃんと怒ってくれる人がいると、安心するし励まされます(笑)。

「解像度」を上げていくと起こること

設計も、金沢民景も、その他の仕事も、自分としては全部同じ感覚でやっているんです。調べたり話を聞いたりしながら、その場所の解像度をどんどん上げていく。そういう作業を重ねていくと、今まで当たり前だと思っていた「前提条件」のようなものが、ひっくり返る瞬間があるんです。

例えば、アートグミで「北國銀行武蔵が辻支店」の建築をテーマに展覧会を企画させていただいていた時のこと。当初は「あの村野藤吾が設計した建物だから、オリジナルを保存しなくてはいけない」と当然のように思っていたんです。けれど、この建物に関する様々な証言や物証を探しているうちに「あれ、実は形を変えながらでも“使われ続けること”の方が大事なんじゃないか?」と。今まで考えていたことと全く反対の考えに行き当たりました。
そういう気づきが増えていけばいくほど、出来上がるものも、一つの課題を解いただけではない、いろんな視点からのイシューを含み込んだものになっていくのではないかと。自分たちがつくるものは、そうやって様々な方向に対して開かれた状態であって欲しいと僕は思うんです。

考えてもいなかったような

金沢の人たちは、基本的にみんなスタンドアローンで、それぞれが自分の正しいことをやっているという印象があります。もしかすると、年代によっても異なるのかもしれないですけれど。
新竪町にあるバルの「パーラーコフク」さんが好きでよく行くのですが、お店では面白い人たちがそれぞれにバラバラに来て各々飲んでいるけれど、時に居合わせた人たちで新しいことが起きたりもする。けれどそれがコミュニティに属さないといけないという縛られた感じじゃなくて。「個」であることが許される街というのか、その距離感が僕には居心地がいいんです。

僕は何かを掲げて独立したわけではないので、「起業した」という意識は正直あまりなく、「成し遂げたい理念」といった大業なものもこれといって持ち合わせていません。けれど、「お客さんと楽しんでつくる」ということはいつも大事にしています。そのためには何よりまずお互いが対等でなければいけないと思うんです。
住宅の仕事にしても、ある種の上下関係が生まれてしまうと「設計者の作品」っぽくなったり、もしくは逆に「ただの図面描き」みたいになってしまう。互いに対等で、互いの価値観を更新していけるような関係性が築けると、考えてもいなかったような良いものができのではないかなと思っています。


(取材:2022年2月 編集:柳田和佳奈)
※荏田南交差点の改修、北國銀行武蔵ヶ辻支店での展示風景の写真:鈴木竜一朗

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