はたらこう課

Interview

リレーインタビュー

人々に心豊かな時間を提供する
飲食業で働く魅力や意義を高めたい。

# 39

奥泉 翔太

SYOTA OKUIZUMI

飲食業

BISTRO & BAR ANCHOR

Profile

1989年、河北郡津幡町生まれ。高校在学中は飲食店でアルバイトを経験。卒業後、工場に就職し、洋服販売やバー、コンビニのアルバイトを掛け持ちしながら勤務。工場退職後、飲食店に再就職し、料理や経営マネジメントを経験。退職後、ダイニングバーの立ち上げに携わり、店長を務める。3年間勤務の後、2017年に独立し、片町で「BISTORO & BAR ANCHOR(アンカー)」をオープン。2020年8月より移動販売事業をスタート。移動販売協会(現:ほくりくキッチンカー協会)の理事に就任。

起業までのいきさつは?

高校生の時に飲食店のアルバイトをした経験がありますが、社会人になってからは生産工場で働いていたので飲食業からはしばらく離れていました。交代制の工場勤務では直接お客と顔を合わすことがなく、自分が今何をつくっているのか、それは誰の何のためになっているのか全然わからなくて仕事が楽しくないな、という思いに。それもあって夜にジャズバーのアルバイトを始めてダブルワークを続けていましたね。バーで働くのは工場とは違ってお客様との距離がゼロに近くなりますし、接客する相手によって楽しかったり悔しかったり辛かったり嬉しかったりと自分の感情が上下に揺さぶられる。それが飲食業を自分の仕事にしたいと思うきっかけになったと思いますね。いつか自分の店を持つことを目標に飲食業の道に入りました。

 

アルバイト先のバーでは料理を提供していなかったので、今後のために料理も学びたいと思い、居酒屋やダイニングバー、定食屋などいろんな業態の店舗を展開する飲食店に再就職しました。2年ほどマネージャーを務め、現場と数字を見るという経営マネジメントの経験も得ることができました。その時もアルバイトとのダブルワークを続けていたんですが、そのバーがジャズの生演奏が楽しめるダイニングバーとして移転オープンするからと声を掛けていただき、そのタイミングで店長として立ち上げに携わることに。25歳の時でした。20代のうちに自分の店というかたちをつくりたいという思いがあったので、最初から3年で卒業する約束で働くことにしたんです。

 

独立については前の店のオーナーや飲食店を営む先輩、会社の経営者などに相談すると、店のコンセプトが明確じゃないと突っ込まれましたね。さらに家庭の事情もあって銀行からの借り入れはかなり難しい状況でした。前職は雇われ店長だったから自己資金もそんなになくて、親からの援助も受けられない。だからといってビジネスに家庭の事情は持ち込めないので、事業計画書の書き方とか、どういう銀行や会計士の選び方だとか、融資を受ける方法やシステムをたくさん調べました。本を読んだり、人に教えてもらったりするだけじゃなく、外食に行ってどれぐらいの数字で経営が回っているのか、事業計画書の書き方はもちろん、どんな質問をされても受け答えができるようにとことん準備して融資を申し込みました。それでも融資が通るかどうかわからないまま、先輩がやっている会社に工事をお願いして、もう一人の先輩のインテリアデザイナーとタッグを組んでもらって店づくりを始めることに。最初はハコを小さく、DIYして初期投資をあまりかけずにオープンしようと考えていたんですが、スケルトン構造で庭付き、2階という点が気に入って決めたこのテナント物件の縦長空間から思い浮かんだ船に乗っているイメージをそのまま形にしたくて。走り出すギリギリで無事融資が通りましたが、それまでの間本当にハラハラしましたね。若者チャレンジ事業の補助金申請も検討したものの、店舗が2階は対象外ということで断念しました。

起業で大変だったことは?

独立のための融資を受けるまでにも苦労しましたが、独立してからの方が苦労や不安がますます大きくなっていきました。屋号を決めるとか、これから先、世の中に根付いてくれればとか、今となっちゃ考えなくてもいい細かいところに悩んでいましたし、お店をオープンした後も、事業計画書に書いた通りの数字だけをひたすら追いかけていました。

 

前職の店が片町にあったこともあり、競合しない別の場所を探そうと金沢駅周辺で探した居抜き物件が決まる寸前で白紙になり、結局片町でお店を構えることになって。近所だからと変なプライドがあって、お店の宣伝広告は行わず、SNSの告知のみ。それでも前の店のオーナーが「案内出さなきゃだめだ」と言ってくれて、いろんな人に声をかけてくれたから、2017年12月にオープンして、初めての年末は前の店の常連客と知り合い中心の来店で店を思い切り走らせることができました。

 

でもその翌月には記録的な大雪に見舞われ、全部が止まってしまった。お客様が1日1人だけという日もありましたけど、有り難いことにゼロの日はなかった。それでも、容赦なく何百万円もの請求が来ますし、どんどん運転資金が厳しくなって、12月で得た売上金も底をついてきて、お金のやりくりに大変な思いをしました。雪が融けて客足が戻ってくる頃までの3ヶ月間をなんとか乗り切りましたが、知り合いや友達だけでできる商売はないと身をもって知りました。店やサービスの細かいディテールやクオリティ、サービスする側の人間性や空間、ムードというものに対してもう一回アンテナを張って、これから店で大事にするものを決めていこうと、お客様にとっての店づくりという方向性へと早めに舵を切ることができました。あの大雪がなかったら、もっと調子に乗って失敗していたかもしれませんね。

 

お客様のための店づくりの一環として力を入れたのが食事メニューです。店は僕が長年働いてきたバーの印象が強くて、どうしても8、9割は2次会利用となってしまいます。4~5割ぐらい1次会に使ってもらえるお店にしていくには料理の力が必須。オープン当初から高校の時のバイト仲間でもあった同級生がシェフを努めていますが、器を変えたり、季節に合わせた提案をしたりと、料理メニューをいっしょに考えながらつくり込んでいきました。

 

今は20歳から80歳まで幅広い層の常連のお客様に多く来店いただいています。私やスタッフを介して、カウンターで知らないお客様同士の会話が弾み、自然と仲良くなっていけるような雰囲気づくりを心がけています。その空気を乱すような行動をされるお客に対してはきっぱりお断りすることを徹しています。年齢、男女関係なく良き出会いの場にしたいので、自分が一番信頼される存在になっていなければなりません。お客様からは僕は真面目過ぎるほど真面目と言われているくらいです(笑)。

ケータリングや移動販売も行っています

2018年の大雪を乗り越えてようやく順調に走っていたと思ったら、次にやってきたのは2020年からのコロナ禍。4月に緊急事態宣言が出て営業ができなくなり、1、2日大泣きするほどへこみました。でも、その翌日にはもう動き出し、看板メニューのオムライスをお弁当にして、常連さんたちを中心に販売と配達をスタートさせました。Instagramで発信すると大きな反響があり、カウンターがオムライス弁当で埋まるほどに。これからの時代、どうなるかわからないんですけど、こういうスタイルを求める人もいるのだと改めて実感しました。

 

お店のお料理やお酒、そして僕たちという空間を忘れてほしくなくて、会いに来られないなら僕らが会いに行こうと考え、キッチンカーでお店のコースをデリバリーしてサービスするシステムもスタートさせ、それが口コミで広がりました。さらにお弁当の移動販売も始めたことによってお店を知ってもらうきっかけにもなりましたし、常連の方もお店に帰ってきてくれました。店舗だと金額も違いますけど、新規の来店客も増えましたし、常連の方も「店で食べるとやっぱりおいしい」と言ってくれて。ちゃんとした厨房でつくった料理を空間とセットで調理した料理を食べてもらうのが、一番いいパフォーマンスを提供できますからね。

 

コロナ禍の店を開けられない状況であってもかかる固定費は少なくありませんし、社員も抱えています。誰も待ってはくれず、何もしなければお店は潰れてしまう状況で、何かできることはないかを考えて、これがイケる、となれば決断は早いんです。じっくり考えてからじゃなく、先に動き出してからやり方を考える感じですね。コロナ禍で閉店に追い込まれたお店も少なくない中、「お客が戻って良かったね」とか「ラッキーだったね」とか言われることもよくありますが、たまたま当たったんじゃなくて、これまでみんなでどうしようかと何度も話し合いながら店づくりを考え続けてきた結果だと思っています。それこそ営業できない中、キッチンカー購入のために自分の手元から数百万円のお金を出すことには大きな勇気がいりましたしね。結果、今でもキッチンカーは重宝されていますし、出店オファーも止まらないので嬉しいですね。イベントや企業のランチタイムにその場で料理をつくって出して欲しいといった要望が多いです。今は「ほくりくキッチンカー協会」の理事も務めさせていただいています。僕が移動販売を始めた時は、キッチンカーに対して補助金の対象外だったので、今の人たちは資金面では恵まれていて羨ましいです(笑)。

金沢で起業する魅力は?

石川県は海も山も川もまちも近く、食と水がおいしい。石川の人はシャイで人見知りだけど、入り込むと情が深くて温かいし、ツンケンしているように見えて、入ってみたら横のつながりがあるのがわかります。いろんな方と独占じゃなく共有できるところがこの業界でもメリットがあるんじゃないかと思います。

 

移動販売車があるので、日本全国どこへでも行けるようになりましたが、多店舗展開はそれほど意識していません。スタッフが「こんな仕事に挑戦したい」と言える場として、その意思を尊重するための企画運営部を設けていて、キッチンカーもここで運営しています。だから企画運営部としてのいろんな展開の仕方はこれからあるかもしれないですね。今後、スタッフが独立することがあれば、しっかり送り出してあげたいと思っています。

これから起業する人へのアドバイスを。

言ったことはやる、ということでしょうか。僕も独立起業の相談を受けることが結構ありますが、計画倒れとなる話がほとんどです。聞けば何一つやっていないんですよ(笑)。それだといつまでも起業できないと思いますしね。「やってみたけどダメだった」という方がよほどカッコいい。僕が起業してみてわかったことは、自分が何かしようと思えば良くも悪くも何かが動くということ。必ずしもそれが全部いい結果を生むわけじゃない。何百何千と仕掛けても当たらなかったりしますし、ポンと思いついた1つがうまく当たることもあるんです。

 

会社を経営する方から社員教育について聞かれたりもしますが、スタッフ教育のためのマニュアルをつくろうとは考えていません。自分で自分らしいサービスを考えてもらうだけ。それこそ金髪でもタトゥーをしていたっていい。もしそれが人から否定されたとしても、ひっくり返せるぐらいの圧倒的な人間力をつけてくださいと伝えています。そのせいか、うちには名物スタッフがめちゃくちゃ多いんです。

今後の展望は?

コロナ禍で閉店してしまった能美市の飲食店跡で、今年の冬頃までに冷凍食品の製造販売を始めるための準備を進めています。味が落ちない冷凍技術を使ったマシンを導入し、オムライスなどのアンカーの人気メニューだけでなく、他の飲食店の料理の冷凍商品も手がける予定です。片町離れを日々実感しているので、この事業を通して少しでもまちの力になれたらと思っています。移動販売の仕事のオファーが小松加賀方面はやや弱いので、能美市に拠点を設けてもっと広めていければいいなとも思っています。冷凍食品はECでの全国展開と、近隣スーパーへの取り扱いの両方を考えています。よりおいしいものを提供していきたいし、どんな店のどんな人がつくっているんだろうと興味を持ってもらい、最終的にはこの店に帰ってきてもらいたい。

 

50年のうちには、もしかしたら100年かかるかもしれないけど(笑)、金沢のまちで「アンカー知ってる? いい店だよね」と言われ続ける店になることを目指したい。そのためには手を抜かないことでしょうね。現状維持は衰退だと思うこともあるんですが、現状維持しようとする努力も素晴らしいことでもある。それでも、同じことをやり続けるのもつまらないですし、いろんな方面にアンテナは張っていきたいですね。

 

価値が高ければ店の場所は選ばないと思っていますが、僕は片町が好きなので、繁華街に飲みに行く人をもっと増やしたい。一方で、働く側として飲食店は世間体がよくない職業といつまでも言われ続けるのは嫌なので、働き方などいろんな改革を進めていき、飲食業の魅力や地位をもっと引き上げて、自信を持って飲食店勤務と人に言える文化をつくりたい。飲食店は確かに生活必需品ではありませんが、おいしいものを食べる幸せといった精神的なものを提供する存在です。だけど、そういう精神的なものが数字や理屈を超えてくることもある。誰かの生活の一部を豊かにできる時間がつくれたら、「いいじゃん飲食店」というふうになるのかな、と。そこに僕がこの仕事を選んだ意味があるんじゃないかと思うんです。

2022.11 編集:きどたまよ 撮影:黒川博司