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2022.03/22 起業家紹介

起業家紹介vol.11 赤池佳江子

一つの絵を、誰かが見てくれている。

赤池佳江子

1977年金沢市生まれ。金沢美術工芸大学商業デザイン科(現・視覚デザイン科)卒業。パレットクラブ6期イラストコース卒業。唐仁原教久(とうじんばらのりひさ)氏に師事し、HBスタジオ、HBギャラリー勤務。HBファイルコンペvol.17 藤枝リュウジ特別賞受賞。2009年より金沢にUターンし独立。TIS会員。

得意じゃなくても、楽しくて。

「大学は“勉強”じゃないところに行きたい」と、高校生の頃に思っていたんです。勉強があまり好きじゃなくて(笑)。そこで突然「美大に行こう」と思い立ちます。当時私は吹奏楽部で、特に絵が上手かったわけでも、美術の成績が良かったわけでもなかったので、先生も「えっ、なんで美大?」と驚いていました。
視覚デザインのコースを選んだのも、単純に「楽しそう」って思ったからで。受験に向けて通いだした画塾が学校とはまた違う世界で新鮮で、試験対策の「色面構成」を作るのもすごく楽しかったんです。

「イラストレーター」という仕事があることを知ったのは、大学に入ってからです。広告デザインの勉強でデザイン関連の年鑑を見ていると、和田誠さんや安西水丸さんといった、当時華々しく活躍されていたイラストレーターの方々の仕事がたくさん出てくる。それを見て「私もやってみたい」と、自分でイラストを描き、それを使ってポスターや課題の作品を制作し出したのがきっかけです。

やっぱり、イラストが描きたい。

大学卒業後は、東京のデザイン事務所に入社します。けれど「やっぱりイラストをやりたい」という想いがどんどん膨らんできて、2年で辞める決意をします。そしてアルバイトをしながら「パレットクラブ」というイラストレーターを養成する学校に通い始めました。そこでは第一線で活躍する有名なイラストレーターの方々が講師陣として招かれていました。

ある時、アルバイト先の本屋さんで発売前の『イラストレーション』(イラストの専門誌)の巻末に、イラストレーターの唐仁原教久(とうじんばらのりひさ)さんのアシスタント募集が載っていたんです。唐仁原さんは私の憧れの方だったので、「これは…!」とすぐに履歴書をつくって送りました。
普通のポートフォリオじゃつまらないかなと、本のようなちょっと凝ったつくりにしてみて。一名だけの枠だったのですが、採用の連絡をいただけた時はとても嬉しかったですね。あとで聞いた話だと、私が一番乗りの応募だったらしいです(笑)。

「イラストレーター」という仕事。

唐仁原さんのもとではアシスタント業務と同時に、唐仁原さんが運営する「HBギャラリー」のスタッフとしても7年半働かせていただきました。この間に、どんな風に仕事が来て、その仕事に対してどういう提案をするのかといった「イラストレーターの仕事の流れ」というものを学ばせていただいていたように思います。何より、間近で唐仁原さんが描いている姿を拝見させていただけたことが、自分にとっては一番の勉強になりました。

唐仁原さんの事務所に入るまでは、イラストにおける「自分のスタイル」というものが見つけられずに、迷走していたんです。描きたい気持ちがあるのに、どう描いていったらいいのかが分からない。でも、唐仁原さんの近くで仕事をさせていただいているうちに「私もこんな風にかっこいい絵を描きたい」と強く影響を受ける中で、自分の作風というものが徐々に出来上がっていったように思います。
イラストレーションの依頼のいただき方は様々です。すでに描く絵が具体的に決まっているものもあれば、編集者さんのイメージをうかがって形にしていく案件、あとは送っていただいた本や資料を読んで「自由に描いてください」という場合もあります。

絵はイメージを描くものではありますが、同時に「資料探し」も実はすごく大切な作業なんです。例えば舞台が大正の物語のイラストを描く場合は、その時代の人たちが着ていた服装を調べたり、当時の資料を探したりもします。そういう作業が絵に説得力を持たせると思っていますし、逆に私の場合は見ないと描けないんです。
イラストを描く時は、独特の線が出る「竹ペン」を私は好んでよく使っています。最近ではiPadで描くこともありますね。

東京から金沢へ。仕事のアテはないけれど。

金沢に戻ってきたのは2009年です。東京での仕事はすごく充実していて楽しかったのですが、人の多さや家賃の高さといった「東京で暮らすこと」に少し疲れたというか、「帰りたいな」って思ったんです。当時32歳、このまま一人東京にいるのかどうか、立ち止まって考える時期でもあったのかもしれません。

いざ金沢に戻ったものの、仕事のアテは全くありませんでした。東京時代の仕事はいちスタッフとしていただいていたものなので、「赤池佳江子」の名前で個別にいただいていた仕事はほぼなかったんですね。映画雑誌の挿絵のお仕事が一件あるのみ。それはもう、不安しかない状態でした(笑)。
そんな中、『婦人公論』の挿絵など、東京からお仕事依頼をいただくことがポツポツ増えてきたんです。以前に私が描いたイラストをどこかで見て、仕事を依頼してくださるというケースが多かったように思います。
今の時代どこもネットがあるので、仕事自体は東京にいた時と変わらずにできました。普段は電話とメールでやり取りをして自宅で絵を描き、時には東京に出向いて打ち合わせをすることもありました。

一つの仕事が、自然と次の仕事に繋がっていく。

そんなわけで、金沢にいながらも当初はほとんど東京の仕事をしていたのですが、2013年の「冬の友」というイベントでイラストを担当させていただいたことをきっかけに、金沢でも少しずつ名前を知っていただけるようになりました。地元の方からお仕事のお声がけをいただくことが徐々に増えて、今では東京と金沢の仕事の割合は半々くらいになっています。

イラストレーターは出版社などにイラストを持ち込んだりと「売り込み」をすることが多いです。実際私も東京にいた頃は営業もしていました。けれど、金沢に来てからというもの、売り込みをしたことは一度もないんです。
ここでは自分の仕事をきちんと評価していただいた上で、声をかけていただけているように感じます。一つの仕事が自然と次の仕事につながっていくというか。金沢はコミュニティがとても狭いので、誰か一人と繋がれば、いろんな人と繋がりやすい土地だということもあるのかもしれません。

北陸で、イラストレーターとして食べていく。

とはいえ北陸では「イラストレーター」という仕事はまだまだ馴染みが薄いので、今も日々探り探り仕事をしています。価格設定一つとっても、東京の基準は参考にできません。私は「イラスト」というものをもっと身近に感じていただきたいので、なるべく手頃な価格で、かつ自分が苦しくないラインを模索しながらやっているのですが、それだと儲からないんですよね(笑)。それでも「高い」と言われることはあるので、地方でやっていくことの厳しさを感じることもあります。

けれど同時に、地方だからこそのお仕事の在り方もあるように感じます。最近では個人店からお仕事の依頼をいただくことも増えたのですが、例えば店主が好きなものを私もよく知っていて、その上で「こういう感じかな?」と提案したり。イラストで個人店の力になれることや、その関係性の近さが良いなと感じています。これは都会ではなかなかできないことではないかなと。

勢いと周囲のサポート、どちらも大事。

2020年に出産し、今一歳半になる娘を育てています。夫は自分の実家(岩本清商店)で働いているので、日中は義両親に子守をしていただいて、その間に私は仕事をしています。こういった家族や周囲のサポートがあるかないかはとても大きいなと、改めて感じています。
金沢に戻ってきた当初も、仕事が軌道に乗るまでは実家で親のスネをかじっていました(笑)。もし金沢に帰ってきていなかったら、フリーランスをやっていなかったんじゃないかと今振り返ってみて思います。東京の物価が高いのはもちろんですが、それよりも精神的な面で色々とキツかったのではないかなと。

フリーランスになる上で「儲からなくても好きなことをしたい!」という「えいや!」の勢いが大事だとは思うのですが、同時に「いざというとき頼れるところがあるか」という目配せも大事なのではないでしょうか。なんでもまるっきり一人でやるわけにはいきませんからね。
イラストレーションの魅力は、イラストを介して色々な情報が伝えられるところ、そして、それによってコミュニケーションが取れるところだと思っています。何より、絵が入ることで見ている人が喜んでくれることが、私としては一番嬉しいんです。

金沢に来て、「新聞小説の挿絵を描く」という、長年の夢が一つ叶いました(泉鏡花「ふるさと随筆選」、徳田秋声『ファイア・ガン』北陸中日新聞)。神社のお守りの絵柄をデザインするという経験もさせていただいたりも。いつかは自分でお話を考えて、絵本も作ってみたいとも思っています。紙モノはやっぱり好きで、描いてみたいものはまだまだたくさんありますね。


(取材:2022年2月 編集:柳田和佳奈)

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